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こんにちは、えびす屋です。

当店は墨田区を中心に、骨董品、古美術品、掛け軸などの買取を行っている専門店です。

今回は、先日墨田区にお住まいのお客様からご依頼いただいた、絵唐津の肩口の買取についてご紹介いたします。

ご依頼いただいた絵唐津の片口でした。

とてもサイズ感がよく、絵のいきがとても良く、お酒に合うのに最適なサイズでした。

お客様は、ご実家にあったものを整理する際に出てきたとのことで、ご家族に価値があるかどうかわからず、当店にご相談いただきました。

当店の鑑定士が拝見したところ、桃山時代または、江戸時代初期の可能性が高いことがわかりました。

そこで、お客様のご希望に沿った金額をご提示し、買取をさせていただくことになりました。

お客様からは、

「査定も丁寧で、金額にも満足しています。また機会があればお願いしたいです。」

と、嬉しいお言葉をいただきました。

当店は、墨田区を中心に、骨董品、古美術品、掛け軸などの買取を専門的に行っております。

また、Googleの口コミで5.0の評価をいただいており、多くのお客様にご満足いただいております。

査定は、LINEから簡単にご依頼いただけますので、ぜひお気軽にご相談ください。

お問い合わせ先

東京都墨田区東駒形4丁目23−3

080-2544-8236

お問い合わせ

墨田区で骨董品、古美術品、掛け軸などの買取を検討されている方は、ぜひ当店にご相談ください。

丁寧な査定と、お客様にご満足いただける金額をご提示させていただきます。

何卒宜しくお願いします。



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唐津(からつやき)は、近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部造された陶器の総称。日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、作風・技法も多岐にわたる。茶碗は古くから「一楽二萩三唐津」と称されて名高い。分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。

歴史

岸岳古窯 飯洞甕下窯の窯床(唐津市北波多稗田)

昭和期に操業した横枕の大甕登り窯跡・4段目(唐津市相知町横枕)

松文大皿(メトロポリタン美術館)[1]
唐津焼は、近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、平成17年(2005年)の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。

伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵、いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている[2]。

天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる[2]。

文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった[3]。

古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である[4]。

文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる[5]。

草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。

だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。 

明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。

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