骨董コラム:紙本(しほん)の酸化と「星」の正体――セルロースの脆化(ぜいか)が示す真筆の年代
2026.04.13
「古い掛け軸のシミは、単なる汚れではないのですか?」
荻窪の事務所を出て、青梅街道から中野、新宿方面へ、あるいは環八を南下して世田谷の成城や奥沢といった、昭和初期から続く古い邸宅が並ぶ区画を移動するなかで、私の視線は常に「有機物の劣化速度」に向けられています。蔵の整理現場で、数十年、あるいは一世紀近く放置された掛け軸が現れることがあります。多くの方は「シミだらけでボロボロだから価値がない」と判断されますが、私がその紙の表面を確認した瞬間に測定するのは、汚れの有無ではなく、紙の繊維が辿った「酸化の深度」です。
今回は、2017年に杉並区内のお宅で、一点の紙本(しほん)掛け軸に対して240,000円という査定額を導き出した実例を確認しつつ、掛け軸という物質がなぜ国際的な相場で評価されるのか。 墨・紙・拓本 のなかでもセルロースの脆化(ぜいか)と鑑定の論理を記します。
セルロースの酸化:紙が放つ「色」の物理的根拠
掛け軸の支持体である「紙」の主成分はセルロースです。植物繊維であるセルロースは、空気中の酸素や水分、そして紙を漉(す)く際に使用された「礬水(どうさ:膠とミョウバンの混合液)」と反応し、数世紀という時間をかけてゆっくりと分解・酸化していきます。
この酸化のプロセスこそが、古い紙特有の「時代色」の正体です。鑑定の際、私は紙の表面に光を当て、その反射率を確認します。現代の紙を薬品で染めた「エイジング」は、表面だけが均一に茶変していますが、数世紀を経た本物の紙は、繊維の一本一本が内部から酸化し、深みのある、しかし透明感を持った褐色を呈します。こうした紙質の変遷については、 東京国立博物館 に収蔵される古筆や名画の紙を確認することで、その物理的な差異をより深く理解することができます。
2017年の杉並の現場で確認した品は、まさにこの酸化の状態が、制作年代とされる明代後期から清代初期の物理的な法則と完全に一致していました。私はその品を、単なる「古い絵」としてではなく、数世紀にわたる化学変化を正しく経た「組成の安定した物質」として特定しました。
「星」の分布:カビと酸化が作る非対称の証拠
掛け軸の表面に見られる茶褐色の小さなシミを、この世界では「星(ほし)」と呼びます。これは空気中の湿気によって発生した微細なカビや、紙に含まれる微量の鉄分が酸化することで生まれます。この星の出方には、偽物には決して真似できない「不規則な法則性」があります。本物の古画における星は、掛け軸を巻いた状態で数十年保管されるなかで、紙と紙が密着する部分とそうでない部分、あるいは表具(ひょうぐ)の糊(のり)の成分と反応する部分で、グラデーションを伴って発生します。
鑑定の際、私はルーペを用いてこの星の輪郭を確認します。薬品で人工的に作られたシミは輪郭が鋭利ですが、自然に発生した星は、繊維の毛細管現象によって周囲に淡く滲んでいます。2017年のあの現場で提示した240,000円という数字は、作品の筆致もさることながら、この「星」の分布がいかに自然な経時変化を示していたかという、物理的な真実に対する国際的な実勢価格としての回答でした。これは、 硯 の石紋や組成を確認するのと同様の、ミクロの視点による検証作業です。
城南・城西エリアにおける収蔵品の「保管環境」
杉並、中野、新宿、渋谷、練馬、世田谷、目黒、大田、さらには三鷹、調布、狛江。この広域を網羅する鑑定実務のなかで、私は各地域の現場ごとに異なる「紙の枯れ方」を確認してきました。このエリア一帯は、二十世紀の戦前・戦後を通じて、大陸から渡った最高純度の 中国美術 や和骨董を、生活の一部として保管してきた集積地です。
世田谷、杉並周辺をはじめ、中野、渋谷、目黒、大田、三鷹、狛江、調布。その辺り全般に強いえびす屋として、事実に基づいた評価を行っています。桐箱の中で守られ、適度に呼吸を続けてきた紙は、脆化(ぜいか)しながらも強度を保ち、独特の光沢を放ちます。何の変哲もない桐箱の中に、数世紀の時を経て酸化した紙本が、現時点での国際市場の需要と合致し、正確な価格へと再定義される瞬間。私はその立ち会いを現場で行っています。
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